朝晩のスキンケアの時間。エッセンスを手に取り、そっと顔に近づけた瞬間に、ふわっと鼻先をかすめる香り。肌をいたわるという行為は、単なるお手入れを超えて、指先の感触や視覚、そして嗅覚が複雑に絡み合うひとつの体験です。わたしたちがスキンケアを心地よいと感じるその一端は、この香りにあります。
FASの唯一無二の香りを手がけているのは、調香師の齋藤智子さんです。香りが描くのは、「哲学の道の朝6時」の情景。なぜその香りが、わたしたちの心を静かに、そして深く調えてくれるのか。その物語を紐解くヒントは、齋藤さんの原風景にあります。

原風景に刻まれた、木の匂いの記憶
京都の路地を抜け、築100年の町家の引き戸をガラガラと小気味よい音を立てて開けると、外の明るさから一変して、ひんやりとした土間の暗がりに包まれます。そこに流れているのは、時が緩やかにとどまるような静謐な空気。
「父が京都の人間で、100年を超える町家がわたしの原風景です。お正月にお膳を並べてお客さまをお迎えするようなしつらえや、日々の行事とともにあった場所。入り口を一段上がった瞬間に広がる古い木の独特の匂いと、お仏壇がある場所特有の、どこか冷えたようなお香の残り香。その匂いを嗅ぐと、ふっと心が落ち着くんです」
子どもの頃から当たり前にあった香りが、感覚の深層に静かに染み込んでいったのでしょう。「なぜ、この場所はこれほど安らぐのか」 その感覚の正体を知りたいという思いが、齋藤さんを香りの世界へと導きました。

日本人にとっての「木の香り」
日本は国土の約7割を森林が占める国。わたしたちは意識せずとも、野原や山、あるいは日常のどこかで、幼い頃から木の香りに触れてきました。その記憶は、知らず知らずのうちに心の奥に蓄積されています。齋藤さんが「木の香り」を軸に据えているのは、それが日本人の記憶に深くなじむ、本能的な安心感につながる香りだからかもしれません。
「例えば、青森出身の方がヒバの香りを嗅ぐと、ふっと地元の風景を思い出すことがあります。それは、無意識のうちに積み重なった香りの記憶が、その人の原風景と深く結びついているからです」
日本という風土で育ったわたしたちにとって、檜(ひのき)や杉の香りは、すでに受け入れる土壌が育っている香りともいえます。
「香りの好みは人それぞれですが、木の香りには自然と受け入れられる懐の深さがあります。この『嫌いじゃない』という感覚こそが、毎日使うスキンケアにとって、押しつけがましくない心地よさを生むためにとても大切なのです」

哲学の道、朝6時の情景
FASの香りが描く情景は、「哲学の道の朝6時」です。それは、観光客の喧騒が訪れる前、地元の人だけが知る静かな時間帯。夜明け前の山々が青紫色に霞み、次第に明るさを帯びた薄紫色へと移ろい、しっとりとした澄んだ空気が流れる朝。齋藤さんが描き出したのは、単なる「さわやかさ」とは異なる、凛とした透明感とどこか雅な静けさ。空気そのものが潤いを湛えているような、夜明け前の清らかな気配を香りに託しています。

香りを構成する、日本の木々
その情景を描くために選ばれたのが、日本各地の森に息づく木々。齋藤さんは、わずかな香りの差異を求めて自ら各地を巡り、その土地ごとの個性をすくい上げるように素材を探し続けてきました。それはまるでワインの“テロワール”のように、その土地の風土が香りに現れるのです。
「檜(ひのき)ひとつとっても、地域によって表情が驚くほど異なります。例えば、雪深い北側の斜面で厳しい寒さに耐えて育つ木は、成長が遅いぶん年輪がギュッと詰まり、香りはどこか渋く『硬い』印象になります。一方で、温かな地域で伸びやかに育つ木は、香りがより柔らかく、大らかに広がるのです」

FASの香りの軸となるのは、齋藤さんが「絶大な信頼を置いている」という世界遺産・熊野の檜です。日本古来からそこにある、動じない安定感のある熊野の檜。紀伊半島の豊かな環境で育つその香りは、強すぎず、背筋がすっと伸びるような潔さを備えています。そこに京都らしい風情を添えるのが、繊細な枝葉のみを蒸留した北山杉。飾り棚などのしつらえ用の建材としても使われ、シュッと細く伸びた北山杉ならではの透明感と、ほんのり抹茶を思わせるパウダリーなニュアンスが、夜明け前の澄んだ空気感を表現します。さらに、クロモジが料理の出汁のように香りの角を落とし、艶っぽいまろやかな奥ゆきを与えます。
これらに白檀や高知産の柚子、パルマローザやホーウッドなど、14種類の素材が重なり合い、調和することで、手にとった瞬間に心がふわっとほぐれるような、スキンケアとしての「ちょうどいい余白」が生まれるのです。

香りは、なぜ一瞬で心に届くのか
なぜ、わたしたちはこれほど一瞬で、香りに心を動かされるのでしょうか。冒頭で触れた「町家の木の匂いを嗅ぐと心が調う」という感覚には、脳の仕組みに基づいた確かな理由があります。
嗅覚は本能や感情を司る大脳辺縁系へとダイレクトに届く感覚です。その速さは、わずか0.2秒。痛覚が脳に伝わるまでに0.9秒かかることと比較しても、圧倒的な速さです。
「嗅覚は生きるか死ぬかの判断に直結する、最も本能的な感覚。だからこそ、理屈で考えるより先に、心に作用するのです」と齋藤さんは言います。
さらに、嗅覚の記憶力は群を抜いています。1年後、視覚の記憶が半分近く失われるのに対して、嗅覚は65%もの鮮明さを保ち続けます。幼い頃に嗅いだ木の匂いや、日々繰り返すスキンケアの香りが、単なる「匂い」を超えて、わたしたちの感覚の深い部分に刻まれ、離れがたい存在になるのは、この圧倒的な記憶の力があるからなのです。

0.2秒の先にあるもの
朝晩のスキンケアを通じて、その香りは知らず知らずのうちにわたしたちの記憶の地層へと積み重なっていきます。
夜、眠りに向けて緊張をほどきたいとき。朝、新しい一日を健やかに立ち上げたいとき。一滴のエッセンスを顔に近づけたその0.2秒が、日常のノイズを遮断し、自分自身をフラットな状態へと連れ戻してくれます。
「自分にとって安心できる香りを持つことは、人生の質を変える力になります」と齋藤さんは語ります。
今夜、あるいは明日の朝。いつもより少しだけ深く、その香りを吸い込んでみてください。一滴の中に、京都の冷涼な空気や、木の生命力が息づいていることに気づくはずです。意識して香りに向き合うことで、0.2秒の先に広がる新しい景色が、見つかるかもしれません。
Profile

齋藤智子
アロマ調香デザイナー。TOMOKO SAITO AROMATIQUE STUDIOクリエイティブディレクター。TS Aromatique inc.代表取締役/一般社団法人プラスアロマ協会代表理事。京都で10代続く家に生まれ、幼い頃から親しんできた白檀の香りに魅かれて調香の世界へ。15年間で創作した香りは6,000種以上。国内外の美術展やブランドの香りデザインなど多彩なプロジェクトを手がける。著書に『アロマ調香デザインの教科書』(BABジャパン出版)、『暮らしの図鑑 香りの作法』(翔泳社)。FASブラックシリーズの香りを監修。


























